書評(そのなかには批評やたんなる感想も含まれる)とはなにか、書評ナンゾヤどうあるべきか、ということを考えるよりは、それはどこを向いて書かれたのか、を考えるほうが意味がありそうに思った。書評なんていろいろでいいんだから。なので、「どこを向いて書くか」あたりを中心に見てまわったよ。
みなさん本が好きだから書評サイトを運営しているわけで、その本の作り手である作家や編集者がどう思っているのかがかなり気になっているようでした。
はてなダイアリー
こちらの話では「書き手が書評を気にしている」よりもおれはこっちのほう——「書評者が書き手を気にしている」——に興味をひかれた。これを読む限りでは、書評者は書き手を気にしている、ということになる(気にしたからといって書評の内容に影響が出ているかどうかはわからない)。
「いや、そもそも書評は書き手(作者)や編集者を対象にしているわけではない」という意見もある。
書評は作り手側に向けて書くものではない。読み手側に向けて書くものである。
褒め言葉とスルーだけで構成された書評/レビューサイトは、読み手にとって実用度が低い*2。
みやきち日記
「いや読者すら対象にしていない、批評をしている者が対象だ」という意見もある。
批評は、批評という体系内で自足し価値を確かめ合っているものであり、作り手のためのものではないのと同時に、読み手のためのものでもないと思う。
なぞなぞ認証 - はてな
見てまわった限りでは出てこなかったけど、おそらく「自分のためだけに書評を書く」というひともいるだろうと思う。メモとか記録のために。まぁオープンに公開してる時点で「だれかが読む可能性」を考慮しているだろうけど。
今月の「新潮」の対談で東浩紀がこう話しているのを思い出した。
彼らは、小説家の気持ちなど忖度しないし、小説家に評論を読まれたいとすら思っていないかもしれない。ほとんどの評論家が気にするのは評論家だけです。
書評者は評論家じゃないかもしれないけど、そういう書評はたしかにある。
対談の内容については区長さんが書かれているのでこちらをどうぞ。
(そういえばこの対談のなかの田中和生は笙野頼子関連の話題で見かけたっけ。はてなキーワードの「笙野頼子」とか「キーワード「笙野頼子」を含む新着エントリー - はてなブックマーク」でたどると関連エントリが読めます。)
で、このあたりは個々の評者がどこを向いて書いたかによるのだろうから、「書評は——を向いている」と限定する必要はない。個々の書評がどこを向いているか、その内容から判断していけばいい。
ただ
という面もありそうだし、実際、ネットでは「批評という場所」のために書かれた批評が目立つ仕組みになっている。たとえばネットでは
という傾向が見られる。
そういった場所ではおそらく「すでにそこにいる人たち」が第一の対象であって、そうでない人たちはその次の対象になる(ギャラリーとしては意識されている)。Amazonレビューという広大な大地に「作品」という敷物が敷かれ、そこに旗がたくさん立つとそこにはさらに旗が立ちやすくなる。旗が集まるほど、その場所のために書くひとが増えていく。
そしてそこは「闘いの場」となりやすいので、旗を大きく振ったりデカい旗を作って目立とうとするひとが出てくるのは当然。ただ書き手からすれば作品がそういった「場所」のために消費されることが我慢ならない、という面はありそう。
そういった「場所のために書かれた書評」というのはこれからどんどん増えていくだろうし、ブログでこつこつ書いているひとも巻きこまれていくかもしれない。そういった場面では、やはりその書評が「だれに向けて書かれているか」を問いただすのは有効かもしれない。
「はてブのコメント欄も似たような感じ」ってのを書き忘れてた。
「自分だけのため」「コメント書いている・読む人向け」「エントリの書き手向け」っていう違いが顕著に出てるから、あそこがわかりやすい例かも。