fromdusktildawnさんの南京関連エントリで
「彼にマジレスするのがわからない」
みたいなブクマコメントをいくつか見かけたけれど、あれはべつにマジレスしてもいいネタじゃないの。議論としてどのへんを叩くことに意味があるのか、というあたりを考えるのはそれなりに面白いことだと思うし。
一連の流れでの「自分は中道」ポジションというのはなかなか興味深いと思った。その表明の政治的意味合いというか。ここでの政治って、つまりその議論の「場」での政治のことだけど。
陰謀論絡みの議論でも、「わたしはどちらでもありませんが」ポジションから入ってくる自称無垢なひと(通称むく犬)っているけど、議論はちゃんと読まない限り、途中から頭突っ込むべきじゃないよ、というのはある。ぽっと出の意見ってたいていガイシュツなわけだから、わりと邪魔な存在だったりする。むく犬自身はそこで邪険にされると
「へー、まともに反論できないわけですかw」
みたいなことを言ったりするので、それなりに相手にしなければならないし。「自分は議論をまともに読まずにいながら、そういう回答の手間を相手にかけさせることには無頓着」というのは無知以前の問題なのかもしれない。無知な人間は知ることができるけれど、無礼な人間はだれかに教えられることがない。「無礼」というのはつまりコストの話だけど。
あと、きちんと進んでいる議論にもかかわらず、それらを読まずにブクマコメントとかで「どっちもどっちだな」的なことをあえて言い得るポジションて、ある意味興味深い感じはある。そういう表明をしたがる意志はなんなのか、らへんで。
そういう表明、というのはつまり「無関心の表明」のようなものだけれど、「表明する無関心」というのは矛盾してるよね。無関心ならスルーすればよさそうなものなのに。
ネットにはどこか、そういった「表明(表現)しなくては気が済まない」心理に働きかける力があるのかもしれない。この文章とか。それでももちろん「表明する無関心」というのは端的な例だというふうにも思える。ネットはあるところから「表現する空間」ではなくて「表現しなくては気が済まない空間」になるのではないか。いや表現というよりは表明のほうが近いけど。それはたぶん社会への接続とかそういうものとも関係があるのかもしれない。