Hatena::Groupbearhand

しなちょうメルクマール

title_banner
Subscribe with livedoor Reader  はてなRSSに追加  はてなアンテナに追加 [log] [顔icon] [ココロンicon] [コラ!バナ]
[人気エントリ] [熊手人気エントリ] [寄稿しました→ SNSの研究 ]

about this site

■info

ここは【シナトラ千代子】の餌場(略してオレオレ断片部)。
わかりにくかったり説明不足だったりするので注意。
バナーの熊はmorguefile.comから。上の[log]からarchiveへ。そして昼ご飯へ。

071023 【ベアハグハグ】と【秘芸ちょう】のログを統合。

 | 

20071221Fri

[]経験値としての実話(テキスト耐性の話第4回) 18:23 経験値としての実話(テキスト耐性の話第4回) - しなちょうメルクマール を含むブックマーク はてなブックマーク - 経験値としての実話(テキスト耐性の話第4回) - しなちょうメルクマール

前々々回→「テキスト慣れ」していないひとびと - しなちょうメルクマール - 熊手部

前々回→「テキスト耐性」はあるのか - しなちょうメルクマール - 熊手部

前回→「テキスト耐性」とはなにか - しなちょうメルクマール - 熊手部

前回は

どうして実話と思って読み始めるのだろうか。

まで書いた。

このあたりの理由について、ここ数日、ぼんやり考えていた。べつに結論は出ないのだけれど、考えている感じ、というのが薄れてくると困るのでとりあえず書く。


上記の、予想できる理由としては

  • あらかじめ実話を期待している
  • 「書かれているもの」は実話だと思っている

このどちらかではないか。大さっぱに。

しかし「実話を期待している」からといって頭から実話と思うわけではなく、最初はやはり実話かどうかを疑っているということではないのか。読むうち、徐々に実話という確信をもつに至るのではないか。

ではそれだけかというと、やはり「実話が好きだから実話を期待する」というひともいるように思える。そういうひとは最初からかなり実話と思って読むかもしれない。もちろんその「かなり」という部分の多少については、ここでは考えない。


2番目の、「書かれているもの」は実話だと思っている、というほうはどうだろう。

正確にはこれは「実話への期待」というよりは「実話という予想」が近いのだろう。それは「自分の、ふだん読んでいる範囲では、たいていのテキストは実話だ」という経験からくるのかもしれない。ふだんはおもに新聞と新書を読む、といったようなひと、あるいは逆にほとんど読まない、というひとはこういった傾向があっても不思議ではない。

しかしながらその経験からくる予想はやはり期待へと結びついていく——それはつまりそのひとにとって「テキストを読む」という選択がすでに「実話を読む」という期待をこめた行動なのだろう——のだから、やはり「実話への期待」という形になるだろう。


ちょっと整理する。

ひとがあるテキストを実話と思うのには、以下のような要素があるのではないか。

  • 実話と思いやすい要素
    • 読み手があらかじめ「実話を期待している」
      • 読み手が実話に基づいた話を好む
      • 読み手が経験的に実話であることを予想している
    • 書き手による、実話と思わせるような工夫
      • 一般には「読みやすさ」
    • 実話と思わせるような書き手の「工夫のなさ(叫び)」

ここまでで、こういった要素の組み合わせが読み手を「実話だと思う」ところへと誘導するのだろう、というふうに考えてきた。つまりこれは必ずしも

  • ひとはみな実話を期待している

というわけではなく、

  • 内側と外側にあるいくつかの要因が読み手の「期待値」を上げていっている

と考えることもできる……ということではないだろうか。そしてその期待値がどれくらい増えやすいか、あたりを「テキスト耐性」といった感じでおれは捉えていたのでないか。


ちょっと話が戻るし、脱線もするけれど、前におれが「あらかじめ断りがなければ読み始めるときに創作と思って読みはじめる」と書いたあれは、考え直してみると、「あらかじめ断りがなければ読み始めるときに創作と思って読みはじめる、けれどもそれは創作と断定するわけでもないし、実話と考える余地はあると思っている」というふうなつづきがある。たぶんどっちでもいい、と思っているのだろう。

このあたりで、「どっちなのかはっきりしてほしい」というひともいるように思える。「実話なのか、作り話なのか」と。そういうひとは「どちらかというと実話であってほしい」と考えるのだろうか。もしそうだとしたら、キモチとして、実話のほうが受け入れやすいということだろうか。ではなぜ受け入れやすいのだろう。いや、待て。受け入れにくい話もあるだろう。最近の話では、子猫を焼いた話とか。しかし受け入れにくい話すらも実話として読んでしまうとしたら、受け入れやすさはあまり関係あるまい。ではやはり上記したリストのような、つまりテキスト耐性の問題なのだろうか。それとも単純に「実話はフィクションより意味がある」ということなのだろうか。しかしそれはあらかじめ実話とフィクションがはっきりと弁別できている場合の話であって、テキストにおけるそれは要素として一般に弁別できないのである。とすると、なぜテキストにおいてもこれを応用してしまうのだろう。


それはやはり「実話はフィクションより意味がある」と思われているらしいからで、なぜかというと、実話であったほうがそれを一種の経験として自分のなかに組み入れたとき、その価値がそれなりに保障されているからではないだろうか。簡単に言えば、「実話というは他人の経験を、自分の経験値として組み入れることができる」から、受け入れられるのである。

そしてはそれはやはり期待するに足る、つまりどちらかというと実話を期待したほうがトクする、という感覚なのではないか。それゆえにテキストを実話として受け入れようとするのではないか。

その流れは「役に立つ情報かどうか」といった選択をしているようにも見える。しかし、「実話だから感動した」ような話は、果たして「役に立つかどうか」で判断される、というか、「(役に立つ)経験として期待されるもの」なのだろうか。

経験値として、そのひとに取りこまれるものなのだろうか。


この項たぶんつづく。

 | 
banner icon 点取り占いブログパーツ この日記のはてなブックマーク数